ある日、はガルボイグラードの街中で老年層の人たちの皮膚状態の調査にあたっていた
       街中心部の一角づつ、一日掛けては巡回をしていた
       春まだ浅い季節である今の時期は、彼らの皮膚はまだそれほど紫外線の被害は受けてはいない
       だが、前年に受けた紫外線による炎症が冬の乾燥によって悪化している症例もぽつぽつ見られた


       「…これは酷い。夏までには治さないと。」


       は調査票に一文字一文字、彼らの名前と病状のデータを記入しながら眉を顰めた

       寒冷地の住人である彼等にとって、短い夏はそれ自体がありがたい恵みである
       夏の日差しは、彼等には何物にも換え難い貴重な存在なのである
       日本人のには、彼等の喜びが如何程の物なのか未だ具体的に予測が立たないが、それでも尚、
       彼等と共にその束の間の季節を歓迎したいと心底願った
       …そして、同時にその「夏の恵み」が彼等に刃を剥いていることも
       紫外線の被害の大きな原因は、この期間における彼等の伝統的行為にあった

       そう、「日光浴」だ

       夏以外の季節、日に当ることの少ない北の民は、この短い夏の間に一年分の日光を浴びる…それも全身で
       何百年も前から行われて来たこの習慣を、オゾンホールは嘲笑うかの如く死の習慣に変えた
       唯でさえ平生日光に浴しない肌に集中的に浴びせられた強力な紫外線は、彼等の皮膚を容赦なく蝕み始めた
       ある年の夏の終わり方、何人もの老人が赤く爛れた皮膚の痛みに耐え兼ねて病院の戸を叩いたのを皮切りに、
       国中の人間が皮膚に病を得ているという報告が莫大な数寄せられた
       まずは元々皮膚の弱い老年層、そして子供
       そして更に大人へと徐々に、且つ確実に被害は拡大した
       疱瘡状に炎症を起こす者、更にそれが青黒く変色する者
       痣やしみの痕が残るだけならまだ軽い方で、重い者になると皮膚癌に蝕まれて命の危険に曝される場合も多い
       そして、夏が来る度そのダメ―ジは確実に身体に蓄積されて行くのだ
       それでも尚、彼等は自らの習慣を捨てようとはしない
       "誇り高き祖先から受け継がれて来た習慣を絶やす訳にはいかない"という素朴な彼等の矜持が、彼等自身を更に滅亡の縁へと追い立てているのだ

       この如何ともし難い現状に、は嘆息を禁じ得なかった
       "どうにかしなければ"と思う度
       「彼等を追い込んだのは何者でもない彼等自身だ」
       「弱い者は滅びるのみ」
       と言うカノンの一言が脳裏を過ぎり、の目の前を暗澹たる霞が取り巻いた

       この国の事、カノンの事、そしてこの国の人々の現状
       の心の裏(うち)は重々しく暗い物で一杯だった


       報告を済ませるために、は暗い気持ちを抱えたまま本部への道程を一人で歩き始めた
       日が長くなってきているとは言え、流石に夕刻ともなると辺りは薄暗い


       「もうカノンが本部に来ている頃かもしれない。」


       仄暗い街角の中、は腕時計の文字盤を見遣って呟いた
       日本であれば、この時刻は人々がひしめき合い、雑然とした暖かさがそこかしこに溢れる街中も、
       この国では人通りも殆ど無きに等しく、ただ閑散とした冷たい空気が流れるだけだった
       街の辻辻を通り過ぎる度、白く光る水銀灯の下にぽつりぽつりと人影がの視界を掠める
       大学にいた頃は深夜まで居座って実験や作業をこなした経験をそれこそ豊富に持つも、流石にこの寒々とした道程に不安を覚え、その足取りを早めた

       此処から本部までは約2km、まだ30分以上は掛かるだろう



       ヒュッ。



       少し近道をしようと路地裏に入った途端、の横顔に冷たい空気の塊が掠った
       かまいたちに似たその風圧によっての右頬が浅く裂傷を負ったのが自分で感じ取れた


       「痛っ……」


       が頬に手を当てた次の瞬間、ザッと鈍い音を聞いては顔を上げた

       …の周囲を、6〜7人の男達が囲んでいた
       年の頃は二十歳前後ぐらいだろうか、薄暗くて良くは判らないがおそらくよりは少々若いようだ
       目を凝らして彼等を見渡した後、は静かに口を開いた


       「……何?貴方達の目的は何なの?悪いけど、大した金品は持ってないわよ。」


       男達の間から、小さな笑い声がさざめいた

       …おそらく、物盗りの類ではない
       それは先程のかまいたちのような謎の攻撃で薄々勘付いている
       と、すれば、彼等は……

       は、右腕に嵌めたNGOの腕章をそっと上から押さえた



       「自分の国に帰れ。此処はお前達のような他国の人間の来るべき所では無い。」


       リーダー格と思しき細身の男が吐き捨てるように言うと、周囲からそうだそうだと囃し立てる声が一斉に上がった


       「わ…私はこの国の人々を少しでも助けたい、唯それだけよ。それの何処が悪いと言うの?
        この国を思う気持ちは貴方達この国の人と同じだわ。」

       「…それが余計なお世話だと言ってるんだ。自分の国の事は自分の力で解決する。
        余所者の協力は必要ない。帰れ、痛い目に遭わないうちにな。」


       男の台詞を聞くと同時に、の脳裏に再びカノンの声が過ぎった
       「滅亡を免れたければ、彼等自身が剣か、剣以外の道で闘って勝つことだ。」








       「闘いでは…剣の力ではこの国は救えない。
        そうやって武力に頼っているうちは、この国の人々の上には安らかな日々は訪れない。
        そして貴方達を此処へ追い遣った本当の原因も見付からないわ、永遠に!」







       カノンの言葉を思い出して暫く唇を噛んだ後、は毅然と男達に言い放った
       男達の間に舌打を交えたざわめきが起こった


       「仮にそうだとしても、余所者のお前達にそんな聞き飽きた正論を説かれる筋合いはない。
        偽善者ぶっているお前達に踏ませる土は、この国には無い。
        判ったらとっとと自分の国へ帰れ!」


       リーダーの男の語尾が、怒気を含んで弾けた
       その怒号を合図に、残りの男達が一斉に拳を構えてに向い躍り掛かった

       ……やられる!

       は、恐怖に目を閉じた











       「…やめろ!そこで何をしている!!」










       路地の向こうから別の大きな声が響いた
       声のした方をが振り向くと、建物の影から一人の男が姿を現した

       黒のダッフルコートを身に纏った男は、学生だろうか、やはりより若干若いようだった
       彼の髪は、夜目にも鮮やかに金色の煌きを発している


       「何だお前は!?邪魔をするならお前から片付けてやる!」


       に襲い掛かろうとしていた男達は、突如現れた闖入者に対して怒りを顕にし、方向を変えてダッフルコートの男に躍り掛かった




       「やめろと言っているのが聞こえないのか!」




       叫ぶと同時に、ダッフルコートの男はカッとその鋭い目を見開いた
       少し離れている所に立っていたにはその様は具(つぶさ)に目にする事は出来なかったが、ダッフルコートの男が叫んだ瞬間、
       彼の周囲に青白い閃光が立ち上るのが感じ取れた
       …光はすぐに消えてしまったので、錯覚だったのだろうかとは次の瞬間には思ったのだが

       仄暗い空の下、ダッフルコートの男の叫びに男達は初めてはっとした様子を示した
       ぴたりと足を止めると、に聞こえない小声で何やらぼそぼそと囁き合っていたが、そのまま元来た方向とは逆の路地に消えて行った





       一体何が起きたのか良く理解できないで立ち尽くしていたの側へ、先程のダッフルコートの男がゆっくり歩いて来た


       「…怪我は無いか?」


       すぐ近くまで来て、男の背がとても高い事には今更ながら気が付いた
       ダッフルコートに白いマフラー、ボトムの裾をロングブーツに挟み込んだその姿は、やはり学生のようだった


       「…あ、ありがとう。」


       は礼を述べながら思わず男の顔を見上げた
       切れ長く少しつり上がった鋭い瞳は、蒼い光を湛えている
       薄い唇はきつく結ばれたまま、綻ぶ気配も無い
       少し長めに残された金色の後ろ髪が、夜風に靡いて波打ちながらさらりと音を立てた


       「君は、NGOの人だな。」


       男は、の右腕の腕章を一瞥すると短く言った


       「ええ。」

       「今度からは、例え任務中でも一人で出歩く時はその腕章は外した方が良い。
        あいつらは極左の跳ね上がりだからな。君達のような団体の人間を忌み嫌っている。」

       「…ええ、そうみたいね。本部の人達が噂を話しているのは耳に挟んでいたけど、
        まさかこうして彼等に出会う羽目になるとは流石に思わなかったわ。」

       「彼等にとっては、他の国の人間が自分たちの足元でうろつかれるのは邪魔以外の何物でもないのだろう。
        …例えそれが君のような女性であっても。」

       「そうね。彼等に取っては男であろうが女であろうが、余所者は余所者に違いないでしょうから。
        …今度から気を付ける様にするわ。」


       は右腕の腕章をそっと外すと、上着のポケットに仕舞いこんだ
       男はその様子を横目で見遣り、眉を顰めた


       「…いや、それを外していても安心はできないだろう。
        彼等はもう君の顔を覚えているに違いない。ともかく明るいうちに帰途に着いた方がいいだろうな。
        それも、人通りのある道を。」


       男の端正な横顔を見詰めながら頷いたは、俄に顔を上げた


       「ねえ、さっきの男達、どうしてすごすごと退いたのかしら。あんなに息巻いていたのに。」

       「…判らん。人に見付かったのでまずいと思ったのだろう。」


       の問い掛けに対し男は一瞬眉間に皺を寄せた後、口の端を僅かに歪めて応えた


       「…そう。てっきり私は貴方のあの青白い光に驚いたのかと思ったのだけれど。」


       その言葉に、男はその鋭い目を大きく見張った


       「……あれが見えたのか?」

       「…ええ。ほんの一瞬だけど。でも気のせいかと思って。」


       須臾の後、男は見開いていた目を細めると言い放った


       「…いや、気のせいだろう。深く気に留めるな。」


       はそれに対して何か言おうとして止めた
       彼が応えるか否か以前に、尋ねてどうにかなる問題でもないのは明らかであったからだ
       俯いたの右頬にゆっくりと男の手が近付き、触れた


       「怪我をしているじゃないか。…あいつらにやられたのだろう?」


       一度にいろんな事が起きたショックで、はすっかり右頬の傷の事を忘れていた
       男に言われてようやく思い出して触れてみると、まだうっすらと血が滲んでいる


       「…あ、本当。」

       「少し待て。」


       男は、コートのポケットを探って一枚のハンカチを取り出した


       「動くな。」


       を軽く制して、男はハンカチを持った左手でそっとの右頬を押さえた
       布越しに、男の掌の温度がにゆっくりと伝わって来る
       男の瞳や表情の鋭さとは裏腹に、彼の温もりはとても柔らかで心地良かった
       しばらくそうしていただろうか、男は空いている右手での右手を取り、そのままの頬に置かれた男の左手の上に重ねた
       おそらくより若いこの男の手はそれでも大きく、指も節張ってごつごつとしていた


       「…よし。暫くこうして上から押さえていればじきに血も止まる。
        後は本部とやらで手当てしてもらうと良い。」


       の頬の上から左手を引き、男はの側から少し距離を取った
       は、咄嗟に左手を男の方に伸ばし掛け、降ろした

       …どうしてだろうか、不意に『行かないで』と男のその姿に内心囁き掛けたのは

       の瞳の中、男の金色の髪がさらさらと風に揺れた








       「ありがとう。」

       「…本部まで送ってやる。何処だ?」


       が本部の住所を告げると、男は歩き出した


       「あの…!」


       男の背をは呼び止めた


       「何だ?」

       「あの…私、貴方の名前を聞いてないわ。こんなに助けてもらったのに。
        …私は。」

       「…唯の通りすがりの人間だ。名乗るまでもない。」


       振り返りもせずに男はに応えた

       カノンと言いこの男と言い、何故自分の周囲にはこうも素っ気無い男しかいないのだろうか

       男に追い付くために小さく走りながら、は心の中で溜息を吐いた









       30分近く歩き、見覚えのあるNGO本部の窓の灯りが見えて来た
       辺りは最早日も暮れ切って、とっぷりと深い暗闇に覆い尽くされている

       …男が一緒に居てくれなかったら、またあの男達に襲われていたかもしれない

       そう考えるとは心底うそ寒くなった
       本部のオレンジ色の灯りが大分近く感じられるに連れて、の心も少しづつ何時もの落ち着きを取り戻しつつあった

       …たった2km、なのに何十kmの道程に感じたわ

       がようやく胸を撫で下ろすと、視界の端にちらりと長髪の男の姿が入った

       …カノンだわ。随分待たせてしまったかもしれない

       そこまで考えて、ははっとした

       今日の事、カノンには黙っておこう
       話したところで一笑に付されるのが関の山だし、任務中まで彼に護衛をしてもらうのは流石に気が進まないわ
       要は、私が日暮れ前までに仕事を終えてカノンに迎えに来てもらえば良いのだから
       …このまま本部まで二人で歩いて行ったら、唯でさえ猜疑心の深いカノンのことだ、きっと怪しむだろう

       は突然その場に立ち止まった
       隣に居たダッフルコートの男も立ち止まる


       「…どうした?」

       「…あ、あそこが本部なの。もうすぐそこだから、だから此処まででいいわ。
        貴方ももう帰らないと遅くなるわ。」


       一気にまくし立てると、は数歩前に出た


       「今日はありがとう。貴方が居てくれたおかげで本当に助かった。」

       「…そうか。」


       男が静かに一言呟いた



       「もう危険な目に遭うことないように気を付けるわ。
        貴方が誰かも判らないけど、貴方が居てくれて良かった。」



       の最後の一言に、男の目が緩やかに細くなった
       …もしかしたら、彼なりに照れているのかもしれない
       その瞬間、の胸の中が僅かにに熱を帯びたことに本人もまだ気付いてはいない
       男は、そのまま背を向けると元来た道をゆっくりと引き返して行った
       は男の背中が街角に消えるまでその場で見送った




       男の姿が完全に見えなくなってから暫し後、は本部へ踵を返した

       ドン

       刹那、の身体は鈍い音と共に大きな壁にぶつかった




       「…カノン!」




       はしまったと思ったが、時既に遅かった


       「あ…あのね。」


       どう説明して良いのか必死で考えながら口を開いたは、ぎょっとした
       天を覆い尽くす星空の中で見上げたカノンの形相は、恐ろしく凄みに満ちていた


       「カ…ノン?」

       「……くな。」

       「…え?」

       「…二度と、あの男には近付くな。」

       「…!!どうして…?」

       「あの男には近付くな、いいな。」


       カノンの表情は、最早それ以上問うことすら許さない気迫が満身に溢れ出していた




       どこか理不尽な思いを抱えたまま、はそれきりその事に触れるのを諦めざるを得なかった







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